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旧日本軍が破壊したと言い伝えられる橋

1941年12月8日、マレー半島東海岸最北部のコタバルに上陸した旧日本軍は快進撃を続け各地を攻略、占領しながら南下してきました。1942年1月11日に第5師団、クアラルンプールを占領、同年1月15日にマラッカ占領、1月31日に第25軍がマレー半島再南端のジョホールバルを占領しています。

翌月2月8日、シンガポールに上陸した旧日本軍は7日後の2月15日に占領を宣言し、大本営政府連絡会議で「シンガポール」を「昭南島」(しょうなんとう)と改称することを決定しています。以降1945年の終戦を迎えるまで3年半の占領統括時代を迎えます。

現在マラッカ(マレーシア)に暮らす1910~20年代生まれの方も減ってきていますが、多感な青春時代に旧日本軍が占領していた時代を経験しています。反日感情のほとんどないマラッカですが「オイ、キサマ」とか「バカヤロー」という憲兵言葉を今でも覚えていらっしゃる方から聞く度に戦争の傷跡の深さを感じます。

さて、前置きが長くなりましたがタイトルにある「旧日本軍が破壊した橋」というのは、マラッカのスタダイス広場とジョンカーストリートを結ぶ橋(TanKimSeng'sBridge)「タン・キム・セン・ブリッジ」は地図にも記載されている正式な名称です。

しかし、マラッカの地元に人には「クロックタワー・ブリッジ」の名前で親しまれています。アーチ型のデザインがなんとなくレトロな感じを与えてくれます。

タン・キム・セン・ブリッジ(昔→いま)

この橋は、旧日本軍の爆撃機から投下された爆弾により破壊されたと伝えられています。マラッカ川に架かる重要な橋ですから占領後すぐ復旧し、現在まで多くの市民観光客の行き交う橋として利用されています。

空爆を受けたこの日、橋以外にもマラッカの主要なランドマークの近辺に4~5発投下されたと、当時のことを記憶しているババニョニャ民族博物館の館長さんから直接うかがいました。(カーソルを写真に合わせると昔と今が入れ替わって表示されます)

上下の写真を見比べると、シルエットの違いから重厚(昔)と軽快(今)、というキャッチフレーズが浮かんできます。古き良きレトロなイメージと、近代化されたシンプルなデザインとも評することができますが、筆者の個人的な意見を述べるとマラッカには旧橋がマッチするんじゃないかな?と思います。

タン・キム・セン・ブリッジ(今→むかし)

マラッカの海洋博物館は荷上げ場だった

マラッカの海洋博物館は荷上げ場だった

上の写真はマラッカ川河口の今と昔の写真です。ほぼ同じ場所から撮影されていますが昔(上)の写真はすぐマラッカ海峡につながる陸揚げ作業所として使われていました。

現在(下)はここからマラッカ海峡まで700メートルあります。埋め立てにより陸地が延長されているのです。左岸にはマラッカの海洋博物館があり、復元されたポルトガル交易船がレトロな雰囲気を現代に伝えるランドマークとして親しまれています。

マラッカの海洋博物館は荷上げ場だった