Tonys NetMelaka Guide歴史>イスラム教を国教に採択

マラッカに到着したアラブからのイスラム使節(トレーダー:交易を目的とする者という捉え方もある)

海のシルクロードの動力源は季節風

マラッカ王国は明(現在の中国)に朝貢を行う優等国として鄭和の大艦隊などによる安全保障をバックに着実に国力を増していった。この頃「海のシルクロード」交易に使われていたのは帆船である。

賢明な読者ならご周知の通り帆船を動かす原動力は気まぐれな自然の風。しかしこの海域ではモンスーンと呼ばれている季節により東西の風向きが入れ替わる「季節風」により計画的な航行が可能とされた。

中国からマレー半島。アラブやインドからマレー半島。東から西、西から東の季節風の時期的な「風待ち」に適した天然の良港マラッカ。恵まれた地理的条件、優れた指導者に恵まれたマラッカは中国(明)、インド、ペルシャ、アラブといった世界各国からの商人が集まるコスモポリタン都市に成長していった。

ポルトガル軍が侵攻してきた1511年に焼き払われたマラッカ王宮。マレーシア独立後「マラヤ年代史」の文献をたどり忠実に再現されたと伝えられる現在の王宮博物館。この王宮は焼き払われるまでセントポールヒルの中腹に港を見下ろす格好で建てられていた

1414年、イスラム教を国教に採択

港を見下ろす位置に王宮が建築され、自国の成長を見守るパラメスワラ国王は次なる構想を練っていた。「鄭和艦隊に随行し明王朝へも自ら表敬訪問し、今や我が国にはさまざまな国から商人たちが集まってきている。

港に着岸した利用税や通商交易に課税するシステムのおかげで国は豊かになり、国民も増加しこうして立派な宮殿も建築できた。この繁栄を持続させる良き作戦はないだろうか?」と自問自答していたかは定かではないがパラメスワラ国王は策を練っていた。

答えから申し上げよう。パラメスワラ国王は、イスラム教を国として受け入れたのだ。マラッカ王国がそれまでヒンドゥー教、もしくは仏教の影響を受けていたのは多くの歴史研究家によって明らかにされている。

鄭和艦隊との同盟と西方重視策でイスラム化

国王がイスラム教に改宗したのは、それなりの素地があった史実を解説しておこう。まず、同盟国である「明」(現在の中国)の海軍大将「鄭和」がイスラム教徒であったこと。

そして当時、マラッカに珍しい商品を持ち寄るアラブ、インドの交易船の船長以下乗組員は熱心なイスラム教徒だった。つまり国王は、いきなりイスラム教に感化され発作的に改宗したのではなく、鄭和指揮官やアラブ商人たちから長い時間をかけイスラムの教えを学んだと推察される。

1414年、マラッカに到着したアラブからのイスラム使節を宮殿に招きパラメスワラ国王は、イスラム教を国教として受け容れることを宣言しイスラム教徒名「イスカンダル・シャー」と改名した。

他説では、初代パラメスワラ国王の後継者「2代目」がイスカンダル・シャーだと記述してある文章を見かけるが、マラッカの地元の人たちは一笑に付して駄説を葬っている。

パラメスワラ国王がイスラム教を受け入れたためイスラム教徒の名前「イスカンダル」を名乗ったのであり、世代交代が行われたのではない。

蛇足だが1446年、ムザッファル・シャー国王は正式にイスラム教を国の宗教に定め政府高官をはじめ貴族や住民も改宗した。以後、歴代の国王は『スルタン』(統治者)の称号を名のるようになり、マラッカ王国はイスラム教国として発展を遂げることになる。

マラッカに現存する最古のイスラム教モスク。俗にスマトラ屋根と呼ばれている瓦屋根建築はマラッカのモスクにしか見られないモノでR

今なお残る、イスラム教伝来時の中国回教徒の影響

マラッカの街の中心部にあるカンポン・フル・モスク。マレーシアで現存する最古のイスラム教寺院として現在でも地元の人たちの礼拝に使われている。モスクといえばドーム型の屋根を想像してしまうが、マラッカにはこういう屋根のモスクが今でも数多く残っている。

マレーシアのイスラム教徒たちはこういう三角の屋根を総称して「スマトラ屋根」と呼ばれている。マラッカがイスラム教を正式に国教と定めた頃、礼拝のためのモスク寺院建築に中国の回教徒が招聘された。

つまり中国式のイスラム建築設計、施工技術が持ち込まれたと言い伝えられている。同じ頃イスラム教を受け入れたインドネシア・スマトラ島(アチェなど)にもこういう三角屋根のモスクが残っている。6000人が一同に礼拝できる巨大なマラッカ州立モスクもこのスマトラ屋根のデザインを採用している。

話がそれてしまったが、マラッカ王国はイスラム教を受け入れその狙いどおり西からのアラブ商人たちの獲得に成功した。そして、15世紀半ばにその全盛期を迎え、マラッカは『多くの卸商人、おびただしい交易船の集まる全世界で最も豊かな港』という評判を得ることになった。


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