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15世紀半ばの偉人の墓をよく観察すると三角形のくぼみがある。左は伝説の剣士ハンジェバットの墓。右はジョンカーストリートにあるハンカストリの墓

マラッカ王朝の倫理観について

マラッカ王国の隆盛のためにはアラブの商人を引きつける必要があり、初代国王パラメスワラはイスラム教を受け入れた。国防同盟関係にあった明王朝(現在の中国)の海軍大将「鄭和」もイスラム教徒だったので受け入れる素地としてはあったにせよ、当初はアラブ商人を呼び寄せるため、いわば利益を求めて宗教を受け入れた見方もできる。

しかし、15世紀の中頃にはイスラムの教えが国内一般に広がり、イスラム神学真理を探究する研究熱が高まりを見せた。もともとマレー半島、インドネシアの島嶼エリアにはインドの文化が深く根付いておりヒンドゥー教、仏教が広く浸透していた。初代国王パラメスワラがマラッカを建国する以前にはヒンドゥ教を信仰していた記録や史跡が今でも残っている。

イスラム教徒の古い墓にはヒンドゥ教の影響が残っている

15世紀前半に建立された、マラッカ王朝の偉人たちの墓を詳しく観察してみると推察できることがある。これらの墓はイスラム式に死者の顔をメッカの方角に向けて埋葬してあるが、墓所の周囲に2等辺三角形のくぼみが見られる。

これは、ヒンドゥ教徒の祈りに欠かせない灯明を捧げるくぼみに酷似している。16世紀以降に建立されたイスラム教徒の墓石とはまったく違う構造である。

イスラム教は唯一神を信仰し、偶像崇拝を固く禁じ、救世主マホメッドの悟りを伝える教典「コーラン」にこそ真実があるとされている。したがって、死者を葬る墓所は非常にシンプルで、仏教徒やキリスト教徒の墓に比べてみるとその差は歴然としている。

しかし、15世紀半ば以前の偉人たちの墓はおしなべて立派であり明らかにヒンドゥー教の影響を残しているように筆者は感じる。

16世紀初頭、マラッカは大航海時代の波にもまれ1511年、ポルトガルに侵略されるのだが同じ年に命を落としたマラッカ王朝最期の皇后さまの墓所にも行ってみたがコチラには三角形のくぼみ(ヒンドゥー教徒の祈りに欠かせない灯明飾り)はもはや無い。

気になって、この時代以降の偉人の墓(16~20世紀)をくまなく訪ね歩いてみたがいずれもヒンドゥー教の影響らしさは一切無かった。古き墓を訪ね歩く筆者であるが、建国当時の宗教観に興味があるためで、決して墓石マニアではないことを付け加えておく。(^^;)

この墓に眠るのはポルトガルの攻略により命を落としたマラッカ王朝最期の皇后さま。よく見ると三角形のくぼみがなくなっておりイスラム教、単独の影響を受けているように思える

「ダウラト」と「デェルハカ」とは?

さて、マラッカ王朝の倫理観を語る際に是非とも覚えておいていただきたい表裏一体の二つの単語がある。「ダウラト」と「デェルハカ」という聞き慣れないコトバでR。

「表裏一体」と先におことわりしたのには深い意味がある。「陰と陽」、「わび」と「さび」これらの言葉と同じように考えていただきたい。わかりやすいよう馴染みのある「陰&陽」で解説しよう。

たとえば太陽と月、天と地、男と女、それぞれ相反しているようでこれらは二つ揃って一つになっている。表と裏、どっちが表でどっちが裏かなどと屁理屈をこねずに捉えていただきたい。

太陽と月は昼と夜それぞれの役目を持って地球を照らしている。空だけでは人は住めないし、大地だけあっても空がなければ人は呼吸することもできない。オトコがいてオンナがいる。二人がいて子孫が・・・(^_^)v

マラッカ王朝の倫理観

本題に戻るが、マレー年代記(スジャ・マラユ)にも記載のある「ダウラト」と「デェルハカ」について詳しく解説していこう。

ダウラト(daulat)は忠義、忠誠を意味し、デェルハカ(derhaka)は不忠、裏切りを意味する。しかし、この二つは実際には文化・宗教的にな意味を持つ概念なので直訳だけでは理解にほど遠い。

ダウラトとは王権・統治統率権とも訳すことができる。マレーの社会において「スルタン(国王)」とは法律的な概念にとどまるモノではない。イスラムの宗教的には現世(この世)の支配者として臣下(国民)に君臨する地位に崇められている。

つまりダウラトとは支配者に各種の権利や特権を賦与し、支配者を一般の庶民の批判や中傷の及ばぬ地位に推挙する意味を持っている。無条件の忠誠を要求するコトも含まれる。一方、デェルハカはダウラトの反対語である。主君の命令に背くこと、裏切り行為をデェルハカと表現する。

国王の命令に従うか?身内の命乞いを嘆願するか?

たとえば、B君が国王から信任を得て治安を守るため警察官に任命されていたとしよう。ある日、B君の父親がささいな事件を起こし国王の逆鱗に触れてしまった。裁判で判決を受けるとしたらムチ打ち3回程度の軽微な罪だったが、国王は「死刑を求刑」。

国王の決定に、反対意見を唱えるのは主君の命に背くので「デェルハカ」と見なされる。知り合いの身内であっても周囲の家臣は黙って死刑を見守る。この忠義が「ダウラト」につながる。

ところが死刑執行に選ばれたのはナントB君本人。自分の父親を国王の命令によって死刑に処すのは「ダウラト」。これに反し死刑の執行停止を唱えるのは「デェルハカ」につながる。筆者が表裏一体と表現した理由はココにある。

B君のたとえ話の結論はマレー人の中で今でも語り継がれている。この物語の結論は両方とも立派なマレー人の生きざまなのでR。国王に絶対服従するためダウラトを優先すべきか?理由なく命を奪われる親族の命を守るためデェルハカとみなされても「人間としての倫理」を採択するか?これら二つの概念は、マラッカ王朝建国の頃から定着しているマレー人の倫理観を示すモノである。

筆者が、マラッカに暮らしマレー人社会の友人とつきあっているとこの倫理観は今でも感じることが多い。彼らの主君とは国王であり、各州を治めるスルタンや知事であり、首相であり、会社においては上司や社長がコレにあたる。

マレー人は盲目的ともいえるほど「ボス」を崇める

マレー人は盲目的ともいえるほど「ボス」を崇めるが、人間としてのプライドは高い。人間性を傷つけられるような大衆の面前での叱咤や、親兄弟の批判を嫌悪する。マレー人は、人間性の尊厳を大切にしながら主君(ボス)を敬う伝統を守り抜いている。

日本が古くから信仰してきた「親を大切にする」という儒教的な考え方が、過去の太平洋戦争時下には何者かによって書き換えられ国民はそれに従った。天皇陛下を「神」と崇め「お国のために」を合い言葉に侵略戦争を推進した。

大東亜共栄圏という高邁な理想のおかげで欧米の植民地になっていたアジアの各国は戦後、独立を早めたとも評価される意見もある。しかし、その声は、一部の親日家の発言でありアジアの総意ではない。

マラッカにあるマレーシア独立記念館に展示されている日本軍の侵攻図

筆者は、人間としての尊厳を国家の統率や指導により変えるのではなく、祖先や親が守り抜き語り継がれた倫理観を建国の頃から一貫しているマレー人社会に敬意を表したい。

付け加えておくが筆者は戦後生まれのノンポリであり、右翼でもなければ左翼でもない。かなり思いのこもった第7章であったが最後までお読みいただき恐悦至極・感謝感激。

次章、伝説の剣士「ハントアの栄光」をご理解いただくためにもマレー人社会に今も受け継がれている表裏一体の倫理観「ダウラト」と「デェルハカ」の解説は欠かせない重要なキーワードなので、いまひとつ理解に苦しむ方は今一度読みかえしていただきたい。


次章 ハントアの栄光 執筆中

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