ザビエル師の殉教後、その聖骸を安置したセントポール教会
- ザビエル師は、イエズス会の命を受けポルトガルを出帆し喜望峰を廻航しインドのゴアに到達。大航海時代の幕開けの頃のゴアは、キリスト教布教のアジア地域の指令本部だったそうだ。
- やがて、極東アジアへの布教のためゴアを出発し、当時ポルトガル帝国の植民地だったマ ラッカに辿り着き、港を見おろす小高い丘にセント・ポール・チャーチ(キリスト教会)で宣教していた。
- ザビエル師は、このマラッカで知り合った日本人の元武士アンジロウ(ヤジロウとも呼ばれている)と出会い1549年、鹿児島に上陸した。日本にキリスト教が伝道したことを知る人は多いだろう。
- 日本での布教の旅は艱難辛苦の連続だったという。しかし、ザビエル師はローマに対して 「日本には礼儀正しく、勉強熱心な国民が多い」と親日的な手紙を送り続けたと記録されている。
- マラッカに戻り、再び中国への布教を夢見てサンチャン島にて中国大陸本土への上陸許可を待つ間に熱病に冒され、志半ばでこの世を去った。殉教したザビエル師の遺骸はインドのゴアへ運ばれる途中にマラッカのセントポールヒル丘陵の礼拝堂に約半年安置された。
- その場所が、この写真を撮影したちょうど背後にある。イエズス会のロゴマークIHSと書かれた鉄骨で組まれた鉄網の箱がザビエル師の遺骸が安置されていた場所とされている。
- IHS会派に所属するキリスト教徒にしてみれば聖人の眠った聖なる約束の地と崇められているのだろう。また、キリスト・カソリック教徒にとってもホーリープレイスとして多くのコインが投げ入れられている。
- 教会の祭壇のあった場所から写真中央の出入り口は真西にあたる。東西に教会が建てられている。筆者はマラッカに住み始めて数年目に偶然春分の日の日の出に立ち会い奇蹟の事実を体感した。
- 秋分の日と春分の日前後数日は、真東の祭壇跡窓から太陽が昇り、真西の出入り口に夕陽が沈む。それぞれの影がまっすぐに貫かれるのは年に数日しか見られない希少な景色なのでR。
- また、マラッカ海峡が見渡せる展望広場は、毎年11月頃から2月初旬までなら夕陽が拝めるポイントになっている。いずれも、期間限定なので旅行プランを計画するときには思い出して欲しい。
セントポール教会礼拝堂史跡にて